判断しない」の次は「決めつけない」笑

小澤は最近どうしたのか、なんか啓発本でも読んだのか

と思われるかもしれませんが、特になんにも読んでません。ほんとに。

 

いやー このごろ思うのですよ。

決めつけないと、意外と、道っていくらでも開けるのかもなって。

 

決断は必要です。

何かを選択する決断はね。

でも、決断と、決めつけることは違う。

 

昔、ある人が言っていた。

「鬱病の患者は、どの瞬間から鬱病になるんだと思う?

『あなたは鬱です』って、診断された時からよ」

本当にそうなのかどうかは、私にはわかりませんが、

その原理みたいなものはなんとなくわかる気がする。

「病気です」と誰かに決められた時から、本当に病気が始まる。

「落ちこぼれ」と誰かに決められた時から、本当に落ちこぼれ始める。

 

判断して、「その状態はこれです」って決めるっていうことは、

「その状態にする」ってことなのかもしれない。

 

逆に言えば、決めなければ、その状態になることはないのでは?

決めなければ、「その状態は、変化する可能性がある」ってことにならないかな?

 

人間は変化する。

というか、世の中のもののほとんどは、変化する。

未来のことはだれにもわからない。

 

例えば

「あいつとはマジで気が合わない。絶対一生嫌いだ」と思うような相手がいたとしても、

その人を「嫌いな相手」と決めないで、

「嫌いかもしれない相手」みたいな 笑

あいまいな感じで放置しておいたら、

嫌いじゃなくなる可能性が、少し広がるんじゃないかな   ってこと。

 

例えば、

「私には営業職は向いてない」と、日頃感じていたとしても

決めとかないで、

「向いてないような気がするけど、本当にそうかはわからない」ってしておいたら

意外と天職で人生花開いちゃった、なんて可能性が、

少なくともゼロから1くらいにはなるんじゃないかと。

 

この場合、事実って結構どうでもよくて、

実際にその相手とはどうがんばってもわかりあえないってこともあるし

営業が本当に本当に向いてなくて望み無しな場合もあるし

そしてその状況が変化するかどうかなんて、誰にもわからないんだけど

そうだとしても、

1パーセントの可能性を残しておいたら

案外おもしろいことが待ってるかもしれない。

 

そしてその1パーセントの可能性を、いろんなところにたくさん残しておいたら

ちりも積もれば山となる。

何か、変わるかもしれない。

 

だから私は、あんまり決めつけないことにしようかな、と思います。

特に自分自身のこと。まわりの誰かのこと。

私はこういう人間、あの人はこういう人間。

経験と学習で判断することは、間違ってはいないと思うけど

だけど、もっと自由でもいいと思う。

人間は変わることができる。

何者にでもなれる可能性がある。

 

理想を捨てて、誰かの判断を捨てて、自分の判断を捨てて

むき出しのまま生きることができたら

それは、とてつもなくおもしろい人生かもしれない。

と思うわけなのです。

 

だってさー せっかく生まれてきて、私という人生を送れるわけで、

後にも先にも、どの世界にも、自分という人間は二度と生まれて来ないわけですよ

私は自分の嫌いなところも好きなところも両方あるし、

傷もコンプレックスも汚い心もいろいろ持ってるけど、

けど、それでも私は私。

もう、どこにも、二度と生まれて来ない私。

だったら、骨の髄まで味わいつくしてやろうかと思うのです、この私という人間を。

なんかもったいないから。

 

それが何になるかはわからないけど

人生を終えるときに、「ああ、小澤紗来をやりきったぜ」って思いたい。

そのために、この瞬間を生きていたいと思う、このごろなのであります。

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