思うこと

判断しない?

よくわからないものは不安である。

 

何事につけでも、そうです。

全体像がわからない。

相手のことがよくわからない。

自分のことがよくわからない。

正しいかどうかわからない。

人間、ワカラナイことほど不安なことはない。

 

だから、「判断」しようとするわけです。

 

私は意外と女子的な一面もかろうじて持っており、

星占いとか結構好きで読むんですが、昨日ある一文に出会ってハッとした。

『人が占いを読んで、自分のことや誰かのことを知ろうとするのは、

そこに「判断」を求めているからです。

自分や、相手のことを知りたくて、でもわからなくて、

だから、「この人は、こういう人だ」と占いが判断してくれたら、

それで不安が少し解消されるからです。』

的なことが書いてあった。(すみません、どの本か忘れてうろ覚え…)

なるほどその通りだと思う。

 

占いに限らず、さまざまなことにおいて、人は「判断」してもらいたがる。

「こうです!」と決めてもらいたがる。

私もそう。

よくわからないのは、不安だ。

よくわからないものには、とりあえず名前を付けたり、理由をつけたりして、

何か「形」に近いものにしないと、不安だ。

 

だけど、「判断」って別にいつもしなくてもいっかー と最近思う。

別に、不安でもいっか。

よくわからなくても、いっか。

もちろんダメな時もあるかもしれないけど、無理に何かに理由を付けたり、

名前を付けたりしなくてもいいのかもしれない。

 

いくら判断を必要としても、やはりその場で、いったい私が「何を感じたのか」

どんな判断も飛び越えて、私は今、何を感じたんだ?っていうこと

それを鮮烈に感じとることができたらいいのに

 

でも、それがまた判断になるんだけども…

 

でも、いつも感覚は研ぎすませておきたいと思った今日この頃でした。

たとえそれに、名前がつかなくとも。

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