思うこと

生きる信仰

おはよございます。

今日は比較的朝に余裕があるので、この時間を使って更新してみる…

 

先日、アエラを買いました。週刊誌。

滅多に週刊誌なんて買わないですけど、表紙が奈良美智さんの絵で、とても色がきれいだったので

なんとなく購入。

そしたらやっぱりおもしろいもんで、黙々と読んでおりました。

 

で、今回の特集は「死ぬ間際に見える風景」。

終末期にある患者さんやお年寄りの方の多数が

「お迎え」(親しい人や風景等の幻覚?)現象を体験する、という

そういう話題。さくっと言うと。

へーっと思いながら読んでいて、ある部分が非常に興味深かった。

「お迎え」現象を調査している、岡部健さんという医師の方のお話です。

 

死んだら「あの世」へいく、という考え方。

その「あの世観」は、戦後と今でだいぶ違うらしい。

敗戦で、たくさんの人が「あの世」を信じられなくなった。

1958年の統計だと、20代で「あの世を信じる」と答えたのは、

わずか13パーセントだそう。

でも、2008年では20代の48パーセントが

「あの世を信じる」と答えたそうです。

さっくり数字だけ言うと、ふーんって感じだけど、

そこには世間で起こった事件や、災害や、様々な世の現象が関わっている。

 

で、岡部さんは2011年の震災に触れている。

「一瞬にしてすべてが奪われる感覚」というものを経験し

「合理的で確実と思っていることもまた、一種の信仰に基づいて成り立っている」

と。

 

ああ、そうか、と私は思った。

生きること。

このまま生きてれば明日が来るだろうと思っていること。

それも一種の信仰なんだと。

私たちは毎日、「明日は来る」と信じながら生きてるんだ。

 

あたりまえに、朝は来ると思っている。

あたりまえに、自分は人間だと思っている。

生きていくうちに、私たちはたくさんのことを信じるようになる。

電話をかければつながる、と信じている。

電車に乗れば目的地に着く、と信じている。

声を出せば歌えると信じているし、

鳥は空を飛ぶものだと信じている。

冷蔵庫は冷たいもんだ。

料理すればおいしいご飯が食べれるもんだ。

言い出したらきりがない。

全部、「そういうものだ」とどこかで信じている。

 

日本は宗教を持たない人が多いし、私も持っていないけど

人間って、何かしら信じて生きてるんだなって思いました。

まあ、信じられなきゃ大変ですよね。

毎日、己が人間であるかどうか疑ってたら、生きていけんよ…!

 

たぶん「信仰」というものは、特別なものでも何でもなくて

ほんとは非常に身近なものなんだと思う。

みんな、何かしらを信仰して、信じることで救われながら生きてる。

「明日が来る」と信じてるから、今日を平和に生きれる。

今日の失敗を、明日挽回しようと思える。

 

そして多分、「信仰」ってほんとにごく普通のことだから

信じちゃってる自分自身に、なかなか気づかないもんなのかも。

 

宗教に関して、世間的にもいろいろありますけど

でもたぶん、遠い誰かの出来事じゃなくて、

誰にでも起こりうることなんだろうと思います。

 

岡部健さんのお話、一部アエラNo.35から引用させていただきました。ありがとうございます。

6 Comments

    1. そのちゃん
      おお、さすが園子大師…!
      その言葉、じつはぼんやりとしか意味をわかってない!
      そして調べてみたけど、むむ、難解。

      でも、「刹那」ってことかな
      最近、刹那に生きるって、好きだよ。

  1. すんません。私もうろ覚えでコメントしてしまった。

    色即是空 は諸行無常表す一節らしいけど、形もの永遠に同じものはない、なのでそこへ執着はしないでいきなされ~

    という意味のようなのですか、なにかの本で読んだ、「自分が認識すればそこにはその時その形で存在するが、認識しなければ存在しないのと同じ」というのがすごく頭に残ってて。

    目の前にある携帯も、冷蔵庫に入っているお茶も認識して初めてそこに存在する。

    天国もそうかなって。
    そしてコンプレックスとかも。

    すべては自分の認識の中でみんな悩んで苦しんでるんだなと。
    「!じゃあ自分の意識を変えればいいんだ」っていっても人だからそう簡単にはいかんよね~

    とかいうのをぐるぐる考えています。

    そしてこういうのって自分の苦にフォーカスしがちだけど、楽しみも喜びも同じ。

    そこにあることに気づけたらいいよね。

    1. そのちゃん
      なるほど。意識ね。
      たしかにそう。本当にそこに存在していても、意識できなかったら、
      そこに無いのと一緒。
      「ある」と感じるから「ある」のだね。

      なぜだか知らんが私たちは、「自分」っていう枠を与えられて
      その中からしか世界を見ることができず
      その意識の中でのことしか感じられない。
      でも、それって要するに「自分」の中さえなんとかなれば、
      あとは何とでもなるっていうか、
      与えられた「自分」という枠の中で、必死にもがけと、
      ぜんぶ自分でなんとかしろ!!と。
      そう言われてる気がしてなりません。

      そんなこと考えてた。

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