思い出 日々つれづれ 読書

絶体絶命チルドレン

友人から借りた、穂村弘さんの本がとてもおもしろい。

穂村弘さん。歌人。お名前は知っていたけど、本を読むのは初めて。

 

今読んでるのは「絶叫委員会」という、エッセイのようなものなんだけど

日常で穂村さんが耳にした言葉、印象的な言葉などにフォーカスをあてて語るもの。

おもしろい。流れるようにすらっすら読んでしまう。

この方は、こういうふうに世界をすくいとるのか…

何気ない日常が、まるで生きものかのように、

なんてことない会話が、巨大な宇宙を含むかのように、

この方の語りを聞いていると、日常は途方もなく広大な空間なんだと思う…

 

この本の中の一節で「子どもは頻繁に、純粋な『絶対絶命体験』をする」

というものがあった。

ちーいさな出来事でも、子どもにとっては

「この世の終わり」ってくらい、絶体絶命感があるってこと。

 

たとえば、大嫌いな体力測定が明日に控えていると

「学校なんて消えてなくなれ」とほんとに願ってしまう、とか。

友達にほんの少し仲間はずれにされただけで、もうこれから先、生きていけない!

と思ってしまう、とか。

結構簡単に、お先真っ暗になるのだ。

あー わかるー 子どもの頃は、ほんとすぐお先真っ暗になった。

今となったら「そんなことちっさいことどうでもいいじゃん…」と思えるんだけど

あの頃はそうはいかない。

 

私もその、絶体絶命感をよーく覚えている。

私は小学生の頃、忘れ物がひどかった。

クラスに、飛び抜けてずぼらな男子がいて、

私はその子と張るほど忘れ物がひどくて

一時期、その男子とともに「忘れ物キング&クイーン」などという

不名誉な称号をもらうほど、本当にひどかった。

毎日何かしらは忘れるのです。

 

だけど、もちろん忘れたくて忘れてるんじゃない。

忘れ物をしたと気づいた時のあの絶体絶命感…

ほんと、この世の終わりかと思う。

 

ある日私は、給食当番なのにマスクを忘れ、絶対先生に怒られると思ったから

配膳の時間中、ずっとトイレに隠れていたことがあった。

白衣着たままで。笑(そのほうがよほど不衛生なんだけど…)

あのときは、たかだか10数分の配膳時間が、永遠のように感じられたものです…

ほんと、命の危険を感じる小動物のように

どぎまぎしながらトイレの中で息をひそめていた。 笑

今となりゃ、「そんなちっさいこと…」なんだけど。

 

でも、じつは今でも私は、

この「絶対絶命感」の遭遇率が高いのかもしれない。

大人としてはね。

もちろん、もはや忘れ物ごときでこの世の終わりとは思わないけど。。。

どうでもいいことは、うまく流す術を身につけたと自分でも思うけど、

流せないものは、まったく流せない。みんなそうかな?

 

たとえば、100人の人に「いい歌だね」と歌をほめられても、

たったひとりのひとに「聴きたくない」と言われたら

やっぱり、すごく傷つくと思う。

簡単にお先真っ暗になりそうだ。悲しみに支配されそうだ。半年は悩むかも…!笑

頭では、万人受けなんて不可能とはわかっていつつ、

それでも、心はどうにもできないもんです。

 

最近、より一層思うけど、

頭で正しいとわかってることと、

実際自分にできることって、

ぜんっぜんちがうんだよなあ。

「こうすべき」「こうあるべき」はいくらでも浮かぶんだが、

実際にそれが自分にできるかといったら、全く別の問題だと思う…

 

ん?なんの話だ。着地点見失いました。

 

ああ、あったかくなって、春ですね。

桜、咲いてるらしい。私はまだあんまり見かけてない!!

なんか、日々の導線上に桜の木がないんだよなあ…

 

春って、今までは苦手だったけど、

今年は寒くてつらい冬が長かったから、

まるで雪が溶け出すように、だれかが笑うように

春の陽気を感じられるのが、しあわせだなあ。

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