思うこと

見よ あの向こう岸を

「対岸の火事」

ということわざがあるけれども。

向こう岸で火事が起こってるけど、

こっちは安全だから関係ないやーって、たかをくくってること。

 

対岸の火事。

自分がしあわせな時、私は結構「対岸の火事」目線で物事を見ていた。

誰かのしあわせじゃない話も、苦労話も

うんうんと聞きつつも、やっぱり他人事だ。

同情したり、共感したりするけど、

でも、それはやっぱり「対岸」のできごとだ。

私は結構薄情です。

 

対岸で起こったはずの火事が、

こちら側にまわってきたとき。

自分が、その火事の渦中にいると気づいたとき。

その苦しみ、辛さが、ようやくわかる。

そして、対岸をのんびりと眺めていた自分を

ものすごく情けなく、恥ずかしく、愚かだと思う。

 

ニュートラルでいたかったよなあ、と思う。

幸せになりたくないって思うんじゃないけど

幸せというものが、人の目をくらますこともあるのだとしたら

たとえ幸せを感じても、溺れないでいたい。

ニュートラルに、立っていたかったと

今更、思う。

 

むしろさ、自分のことこそ、「対岸」のできごととして見ていたいよなあ。

俯瞰っていうかさ。

あの向こう岸に自分が立っていて、

それを、遠くから眺められたらいいのに。

そうすれば、

ああ、何やってんだ、とか

こうすりゃいいのに、とか

対岸であるからこその的確な指示を飛ばせるかもしれない。

 

 

ああ 苦しい時ほど、我が身を対岸に。

幸せな時ほど、我が身を対岸に。

そして、対岸にいた彼ら彼女らを、こちらの岸に。

自由な船か翼がほしい、このごろであります。

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